安塚の歴史

 古くは縄文時代の遺跡もあり、上杉謙信の時代は関東へ続く三国街道の軍事的重要地として、また明治以降は東頸城の郡都として、政治文化の中心的な役割を果たしてきました。いまも、合同庁舎・警察署・消防署・県立安塚高校がありますが、高度成長時代のあおりを受け、山間豪雪地という条件もあいまって、人口流出が続き、平成12年の国勢調査では3,733人と昭和30年合併時の半数以下に減少しました。
 しかし、重荷であった雪を逆手にとっての町おこし運動が高まり、日本で初めて雪そのものを商品化した「雪の宅配便」、空き家を売り出した「田舎売ります」、そして東京に450tもの雪を運びこんだ「サヨナラ後楽園球場スノーフェスティバル」で全国的に一躍注目を浴びました。
 昭和63年12月には主峰・菱ケ岳山麓を中心に国のリゾート特定地区の指定を受け、民間資本とスクラムを組んだスキー場「キューピットバレイ」が全町公園化構想の核として平成2年12月にオープンしました。さらに時期を同じくして同エリアに住民待望の温泉が湧出、平成4年2月、菱ケ岳・ゆきだるま温泉「雪の湯」のオープンを起爆剤に観光振興を進め、今では年間50万人が訪れます。
 まちづくりの特徴は、『雪と緑と人を活かした全町公園』をコンセプトとした『雪国文化村』にあります。町じゅうに広がるフラワーロード、景観条例、雪冷房の導入など住民参加による美しく環境に配慮したまちが少しずつ形づくられてきました。
 そして新しく「上越市安塚区」となった現在、「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」のスローライフやコミュニティの基本である集落が自発的に自立を目指したり「雪のふるさと安塚」の個性を継承したまちづくりに意欲的に取り組んでいます。